コロナ禍での気候変動を起因とする災害対応支援事業の実行団体インタビュー
絶望の中、休眠預金が光明に
避難所を兼ねた工房を移転、新設
名尾手すき和紙株式会社(佐賀県佐賀市大和町)は、2022年の被災を機に佐賀災害支援プラットフォーム(SPF)の休眠預金を活用し、地域住民の一時避難所としての役割を兼ねた工房を新設しました。
同社はなぜSPFの支援を受け、避難所の機能を持たせたのか、災害を経て何を考えたのか―。
代表の谷口祐次郎さんに伺いました。
名尾手すき和紙株式会社について教えてください。
佐賀県佐賀市大和町の名尾地区で和紙を製造しています。
約300年前の江戸時代中期に、県内で最初に和紙を作り始めた会社です。
昭和初期ごろは100軒ほどの家がそれぞれ和紙作りに従事していましたが、今では弊社だけとなっています。
1982(昭和57)年には、県の重要無形文化財に指定されました。
和紙作りは、原料となる梶(かじ)の木の栽培から行っています。
梶の木は600年代中盤、飛鳥時代に中国から伝わったとされています。
それ以降、和紙の原材料として使われてきましたが、近年では梶の木を品種改良した楮(こうぞ)が原材料として活用されることが増えてきました。
こうした中でも約300年前から変わらず、名尾地区で育て、育った梶の木を使い続けています。
和紙は、国の重要無形民俗文化財とユネスコ無形文化遺産に登録されている博多祇園山笠のちょうちん、神主が使う神具に付けられている紙垂(しで)、日光東照宮内にある経典を納める経庫の修復用和紙など伝統や歴史がある行事、神事、施設に使われています。このほか、宝飾品ブランド「BVLGARI(ブルガリ)」の商品パッケージ、アウトドアメーカー「THE NORTH FACE(ザノースフェイス)」のカタログなども作っています。
谷口さんは7代目だそうですね。約300年も続く家業を受け継ぎ、どんな思いでお仕事されているのですか。
名尾手すき和紙は今いない人もいる人も含め、色んな人に支えられたおかげで続いてきたんだと、感謝の気持ちを持って取り組んでいます。
昔は約100軒の家庭が和紙を作っていたので、地域のおじさん、おばさんの中には幼少期に和紙作りを経験した人がたくさんいるんです。
そうした方がアドバイスをくれることもあります。また、和紙作りに使う道具には代々使ってきた人の手形が残っており、歴史を感じさせてくれます。
だから過去、現在を問わず全ての人のおかげで成り立っていることを感じながら仕事に向き合っています。
どうしてSPFの2022年度の支援を受けようと思ったのですか。
2022年8月、店舗と工房が土石流に巻き込まれてしまいました。
その時に出会ったのが、SPFさんでした。SPFさんは多くのボランティアの方を呼んでくれました。
がれきや土砂を取り除く日々の繰り返しで、「復興したい」「でも、できるのか」「無理かも知れない」という感情が交錯する中、悩みも聞いてくれました。
その際に休眠預金のことを教えてくれました。話を聞いて「もしかしたら復興できるかも」と希望の光が差したのを覚えています。だから支援を受けようと思いました。
被災した時は呆然としました。私はこれまで、約300年前に始まった名尾手すき和紙の歴史は人の歴史であり、地域の財産である、と誇りを持ってやってきました。
そして、工房は私たちのモノであって私たちのモノでない、という意識も持っていました。だからこそ、地域住民に憩いの場として使ってもらっていましたし、学校の体験学習にも協力していました。被災により、こうしたことができなくなると考えると、言葉も出ませんでした。
私が半ば絶望していても、SPFさんは一緒に復旧作業に取り組んでくれました。
その姿を見ていたからこそ、休眠預金の話がスッと入ってきたのだと思います。
代表の山田健一郎さんをはじめ、彼らがいなかったら今の私たちはありません。
ほかにも、全国から多くの方が「名尾和紙をどうにかしてあげないといけない」という想いを持ってボランティアに来てくださり、改めて自分たちだけの工房ではない、と痛感しました。復興して支えてくれた人々に恩返ししたい、という気持ちも強くなりました。
休眠預金で工房を移転したと伺いました。
被災リスクが低く、地域の方々にとってアクセスしやすい場所に移転しました。
名尾地区から避難所まで約4㌔あります。
そこが唯一の避難所だったので、被災時に地域の方々は土石流が発生しているにもかかわらず、歩いて向かいました。
振り返ると、よく二次災害が発生しなかったなと思うほど危険な状況でした。
こうした経験から、SPFさんと移転の話を進める中で、地域住民の一時避難所としての機能を備えた工房を新設しようと方向性が決まっていきました。
工房は地域の皆さんの拠り所になっていました。
歴史を受け継ぎ未来につなぐ場所であり、教育活動として活用されていた施設でもありました。
移転、新設したことで和紙を作るだけでなく、こうした機能も守り続けられることができ、本当に良かったです。
SPFさんがいなければ、休眠預金について知ることはなかったと思います。
もし知っていたとしても、私たちの歴史や想い、心情をくみ取って親身に色んな方法を提案してくれた、そして相談に乗ってくれたSPFさんでなければ、申請はしてなかったと思います。
SPFさんには心から感謝しています。
移転によって何か変化はありましたか。
移転前から、地域の方々は個人個人で来てくれていました。
そして、その場に居合わせた人同士で談笑し、帰っていく。
そんな拠り所として使ってくれていました。こうした面は今もあるのですが、より多くの方が来てくれているように思います。
以前は個人だったのが、団体になった感じです。
こうなったのは、工房の復興を自分事として捉えてくれたからだと思います。
実際、工事が進んでいる様子を見て「あれはこうしたらいいんじゃないか」などと提案していただくことがありましたし、上棟式で餅まきをした時は、名尾地区の多くの方にお越しいただいて餅が足りない事態が発生しました。
地域の方にとって以前よりもさらに訪れやすくなり、地域の輪が広がったのかなとうれしく思います。
今後、取り組んでいきたいことはありますか。
内と外の交流を活性化させることができれば、と考えています。
お伝えした通り、以前から工房は地域の方の憩いの場、そして学校教育の場として機能していました。
ただ、それぞれがそこで完結していたので、点と点が交わって線になるようなに仕掛けていこうと思います。
例えば、子どもたちが授業の一環で来てくれた時に地域住民と触れ合う機会を設けたり、地域の方が栽培した作物を販売したり、工房に訪れた観光客らが地域を巡る回遊性を高めたりです。
こうして地域内と地域外を結び、輪を広げられたらと構想しています。
一時避難所としての機能も整備したので、避難訓練も実施する予定です。
被災後、名尾地区に防災会が発足しました。
上棟式の時もそうですが、防災会の会員の方にも「ここを一時避難所として使ってほしい」と伝えました。現在調整中ですが、訓練を年に2回ほど行うそうなので、工房を避難経路に組み込んだ訓練ができるよう、進めているところです。
日本の伝統をありのままの姿で残すこともミッションの一つだと思っていますので、和紙の製造もこれまで以上に取り組むつもりです。
和紙を通して、地域の方々がそれぞれのルーツやアイデンティティーを思い出してもらえたらと願っています。
工房の歴史は今後、さらに濃くなっていくはずです。歴史のある工房が取り壊される寂しさはありますが、それをポジティブに変えられるよう頑張っていきます。