~~幸 奏汰くんのお父さんからのメッセージ~~

私の4歳になる息子(奏汰)は1番染色体の長腕という部位に障害を持ってこの世に生を受けました。今、ここにいる息子を見て「何処が悪いのか?」と思われるかもしれませんが、これまで多くの命の危機を乗り越えて、ここまで元気になることが出来ました。

「奏汰くんは1番染色体に異常があります。」
「この1番染色体の異常についての症例報告はありません。」
「残念ながら予後不明です。最悪の事態も覚悟しておいてください。」
これが生後数ヶ月の時に、様々な合併症で苦しんでいる奏汰の病気の原因を告知された時の説明です。

奏汰は産まれる前から心臓に異常があることが認められ、福岡の病院で万全の態勢で出産に望みました。出産後の緊急手術に対応する為です。その後の精密検査により奇跡的に経過観察での対応で済むことになり私たち夫婦はほっと胸を撫で下ろしていましたが、数日後から「呼吸困難」と「口からのミルク摂取困難」を示すようになり、非常に危険な状態をさまよっていました。当時を思い出すと「あの小さな体で必死に呼吸をして命を繋いでいる姿」は一生忘れるここが出来ないでしょう。そんな中、医師から先天性の異常を疑われ、染色体検査を受けることとなったのです。

今でさえ「出生前診断」などのからみで「遺伝カウンセリング」という言葉を聞くようになりましたが、当時は遺伝に関する専門的・学術的な説明を受けるのみで、とても受け止める家族に配慮した説明とは言えなかったと思います。それよりも「症例報告が無い」「予後不明」「最悪の事態」という医師からの言葉だけが頭の中をめぐり、「奏汰はどうなるの?」という不安だけが強くなる一方でした。
さらに「積極的に治療しますか?それとも・・・」との問いが追いうちをかけ、絶望していました。

しかし、そんな中でも決断をしていく必要があり、私たち夫婦の出した答えは
「奏汰の為に出来ることは何でもする」でした。
当然、「治療は積極的にして欲しい」と伝え、治療法として何かの役に立つならと私たち自身の染色体検査も申し出ました。それほど、わらにもすがる思いでした。

当時、私は愛知県で仕事をしており、奏汰と妻に付き添えるのは月2回が限度でした。
妻は実家のある佐賀市内から病院まで片道1時間以上かけて毎日面会に向かい、「私に出来ることはこれくらいしかない」と奏汰の身の回りの世話で出来ることを看護士に申し出ていました。そんな毎日で疲労困憊している妻も、私との電話では常に明るく元気に振る舞い、遠方にいる私に心配をかけまいと、気を張っていることに気付いた時、私は「家族の為に働く」選択と「家族の為に寄り添う」選択の答えが出たのです。リーマンショックの真っ只中であった当時、仕事を辞めることに、同僚中の人は反対する人もいましたが、迷いはありませんでした。そして、私の両親と妻の両親に、きちんと奏汰の病気(1番染色体長腕部分トリソミー症候群)について説明し、「症例が無い事実」と「この先どうなってしまうか分からない事実」を理解してもらった上で、お互いの両親にサポートをお願いしようと決めました。その為にもう一度この病気についての情報を必死に調べました。
私の両親も妻の両親も、迷わず奏汰へのサポートを受け入れてくれました。実質的な介護サポートは妻の両親が援助してくれ、経済的なサポートは大分にいる私の両親が援助してくれました。本当に家族みんな「奏汰の為」と一丸となって奇跡が起こることだけを信じていました。
そうした中、当初は「寝返りも出来ないだろう」と言われていましたが、寝返りが出来るようになり。「退院は難しいだろう」と言われていたものが、退院が出来るほど回復してきたのです。これは当時の担当医師もスタッフも皆驚いた奇跡でした。
結局、半年間のNICU(新生児集中治療室)での闘病に耐え、無事退院できることとなったのです。しかし今度は「在宅介護」という大きな苦労が待っていました。
奏汰の合併症は大きく2つあります。「胃食道逆流症」と「喉頭軟化症」と言われる病気です。その為、当時は口から食事を摂る事が出来ず、鼻から胃または十二指腸に通した
チューブで栄養剤を決められた時間に注入し、注入したものを吐くことで肺への誤嚥を起こさないよう少量ずつ注入する必要がありました。1日24時間のうち昼夜を問わずほとんどの時間を栄養剤の注入に費やしていました。
また、就寝時は呼吸が弱くなる為、さらに神経を使いました。寝るときは酸素吸入が必要となり、血液中の酸素濃度を測定するセンサーアラームが鳴る度に飛び起きて対処する生活が続きました。在宅介護を初めて1年半ほどは夫婦2人で交代しながら夜中の介護を分担し、奏汰の命を見守る生活が続きました。それからは徐々に症状は軽くなり、今ではセンサーが鳴る頻度はかなり少なくなりました。

そうした在宅介護に追われる日々が続きましたが、一番不安に思うことはやはり「奏汰の今後について」と「正確な情報」でした。奏汰が1歳半の時に長崎大学病院を受診したことがきっかけで、今回研究グループを立ち上げて頂ける近藤達郎先生と知り合うことが出来、また近藤先生が会長を勤める染色体障害児を支える会である「バンビの会」を知ることが出来ました。その時に心救われた言葉があります。
「この子は産まれる前から生命の危機を乗り越えて生まれて来た”命に縁のある子”なのです」 その言葉を聞いた時に、「奏汰が私たち夫婦の子供として産まれてきてくれた理由」の答えにひとつ近づいたような気がして、今までの苦労がスッと軽くなったように感じました。
またバンビの会でダウン症のお子さんを持つ人たちと話すことで、染色体異常の種類は違っても同じ悩みを持って苦しんでいる人がいると気づきました。
そこで感じたことは、
「奏汰と同じ病気を持つご家族がいるなら会って話をしたい」
「悩みや辛さを分かち合いたい」
そして「数少ない情報を共有して、我が子を助けたい」
その頃から私自身の考え方がかわるようになり、何かこの病気に関して情報を得る手段がないのかと思うようになったのがきっかけで、難病支援ネットワークの三原さんと出会うことが出来ました。三原さんのアドバイスは、「奏汰みたいな超希少難病は患者家族が積極的に声を挙げなければ、誰も知ることも無い埋もれた病気となってしまう。だから一緒に頑張りましょう」との心強い言葉でした。そこから難病支援ネットワークの総会でのスピーチの場と国会議員への要望書の提出の機会を毎年頂き、この病気の研究についての要望をしておりましたが、なかなか前には進まない状況でした。
そんな中、今回のプロジェクトの話を頂いた時、恐らく”一生に一度の機会”であると感じました。研究者として信頼できる近藤先生が快く手を挙げていただいたこと、そして数少ない奏汰の病気のことを理解してくれる三原さんが取りまとめてくれること。全てが繋がった思いです。

実は、妻がSNSサイトのミクシーで以前からこの病気に関して情報収集をしておりそこで知り合った7家族と難病支援ネットワークのホームページでの呼びかけでご連絡頂いた2家族と私たち1家族の合計10家族が日本全国にいることが今現在確認されています。しかしこの10人、10家族には、とても残念なことですが既に1人亡くなってしまったお子さん・ご遺族も含まれています。
そして、今回のプロジェクトについて妻から事前に連絡したところ「是非賛同したい」との心強い意見を頂いているとのことです。

今、私たち家族が思うことは、全国に確実におられる10家族とまだ孤立しているご家族を含めた全ての仲間が、心休める場としての「家族会」を設立することと、その仲間と実際にあって話をする機会を作ることです。そこから全てが始まるものだと思っています。
さらに研究グループが立ち上がり、実態調査を含めた情報が明らかになり、周知徹底されることで、今後同じような病気を持ったお子さんが生まれてきたとしても、私たちと同じような、希望が持てない「症例報告なし」「予後不明」という情報では無く、「少ない人数であるが確実に仲間はいる」ということと、「必死に生きて元気に成長している子供もいる」という正確な情報を伝えて欲しいと強く願います。

現在の奏汰は元気と言いながらも、周囲の理解と支援は必要不可欠です。恐らくそれは一生必要となるでしょう。また当然ながら今後どのような症状になるのか不明です。”私たち親亡き後も元気に暮らしていける仕組み”が今回のプロジェクトをきっかけに少しでも構築していくことが出来れば本望です。
今回のプロジェクトを成功させる為に、当然全力を尽くして頑張ります。しかし日々の治療、リハビリ、療育、介護、育児で毎日が追われ私たち家族だけでは、目標達成できません。他のご家族は恐らく私たちよりもっと深刻な状況であると思います。「症例報告無しで居ないと諦めていた仲間」が全国にたった数十家族だけなのかも知れませんが、確実にいるその仲間にとって、この超希少難病に希望を持ち向き合っていけるよう、どうかこの「1番染色体長腕部分トリソミー症候群」の研究着手と家族会設立にご支援、ご協力を頂けますよう宜しくお願い申し上げます。

以上

平成25年12月5日
幸 篤志